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執筆者の写真服部博明

臨床検査技師100人カイギ懇親会in横浜に参加して

更新日:2023年12月22日





横浜 赤レンガ倉庫の夜景
横浜 赤レンガ倉庫の夜の景色

第55回日本医療検査科学会にあわせて、横浜で臨床検査技師100人カイギの懇親会がありました。

学会も参加したので別の記事で感想を書こうと思います。

もちろんワクチン接種や手洗いうがい、移動時マスクなど感染対策は講じました。


〇やはり対面で話すのは良い!

なにより感じたのは、はじめての対面での交流の良さです。

Zoomだと一気にみんなが話すことはできず、あ、あの方とは話せなかったなということが多々あるのですが、対面なら場面場面で交流できるのでたくさんの方々と話をすることができました。

また、画面越しにみえる姿と実際ではやはり違って見えて、私の大きさにも驚かれました。

(身長181cm、体重100Kg あります、やせようと頑張ってはいます!)


はじめて名刺が枯渇する事態にもなり、こんなにたくさんの方々と交流できているということが嬉しいと感じました。

登壇者を経て、運営メンバーとして関わらせていただいたおかげでこんなにも多くの方がとつながることができたということが私の人生にとっても大きな宝になること間違いなし!ととても嬉しい気持ちで会に参加できました。

ここからは懇親会の様子を詳細に~ではなく、以下に人と人が関わることについて持論を語っていこうと思います。

少し長くなるかもしれませんが、暇な時の読み物としてみていただけたら嬉しいです。


〇人と人が関わり

人という動物が他の動物よりも発展できた要素として「言語」「社会性」「道具」があると思います。どの要素も密接であり、言葉を交わし意思疎通できるからこそ共同することが可能で、様々な道具を作り出し、発展できたのだと思います。

このような発展の仕方も含めて考えると、人というのは独りでは生きていけない動物なのだということがわかります。意外と調べてみると、一定の期間しか他の同種族といることはないという動物はいます。コアラなんかもそうみたいです。しかし、我々、人はいつも誰かといます。私は独りで生きています!という人がいるかもしれませんが、今この画面をみている端末(PCやスマートフォン)はだれが作ったのか、それを稼働させている電力は?あなたが今着ている服は?と知らず知らずのうちにたくさんの「人の力」の恩恵をうけて今ここに存在しているはずです。

しかし、そのたくさんの「人」を意識して生活することはなかなかありません。道具は目に見えていても、その道具が使用できるようになるまでにかかわった人をいちいち思い出していたら道具を使うどころではなくなっていまいますので仕方のないことですよね。


実はこのあたりの考えは「臨床検査技師」は感じておくと良いかなと個人的に考えています。検体検査をしていると採血業務担当でないかぎり、直接患者さんと交流することはなかなかありません。検査する「検体(血液や尿など)」と関わることになります。その検体を扱うときに、これはただの血液の入ったスピッツではなく、大切な患者さんの情報を得て医療に役立てるためのツールであると、背景にいる患者さんのことを思い出すことで、検体の扱いが変わってくるのではないかと思います。また、生理検査にいたとしても自分が検査する上で必要な血液検査データはだれがどんな苦労をして出してくれているのかなどは意識した方が良いチームになると考えています。このあたりの思想はまた別途記事にしたいです。


少し話がそれましたが、私たちは意識しているにせよそうでないにせよ、たくさんの人の力を借りて今を生きています。


〇人の悩みも喜びも人とのかかわりの中にある

私は人とのかかわりの中でうつ病を発症し、約8年かけてようやく投薬が減量され、現在、薬からの離脱がみえてきたところです。

逆にそのうつ病のときに支えてくれたのも人とのかかわりでした。

悩みやしんどさも人とのかかわり、喜びや前向きになれるのも人とのかかわり だと私の人生を基に感じています。

良い人とだけ関われたら…そう思ってしまいますが、良い人は人によってそれぞれなので、うつ病のきっかけになった相手側の視点では私は極悪人でしょう。

しかし、ひとつだけ良悪の基準となる者があるとするならば「自分のやり方だけが正義、他のやり方は悪」と考えている人は暴走しがちで、関わると苦労すると思います。


臨床検査技師100人カイギというプロジェクトは「想い」を基につながる場であったため、参加者と関わることで良い交流ができる場であったと思います。参加する人は「自分の正しさを証明してやる!」なんて排他的な想いではなく、「みんなと自分の想いを共有しよう」「みんなの想いをきいてみよう」というとても建設的な考えをもった人ばかりでした。私の基準のなかでの「良い人」が集まっていました。


ここで前段の「社会性」の話になります。小集団であれば排他的な行動も良い面があります。同じ思想を持つ人だけを残し、それ以外は排除している集団であれば意思疎通はしやすく決定も早く、行動力、爆発力があります。追い詰められている状況で何としても変えたいという革命的な行動をとりたいのならばそれも良いでしょう。

しかし、現代日本を生きるわれわれにそれは似つかわしくないと私は思います。色んな在り方、色んな生き方を共有し、それぞれが自分にあった働き方で医療をみつめて支えていく未来の方が私は良いなと思っております。

そのきっかけのひとつとして、本当に良いプロジェクトに関わらせていただき感謝しております。いつか私の生き方も誰かの参考になればと思っています。

フリーランスへの道はたくさんありますが、私の場合は「地方都市で超音波検査を強みに働く」方法です。この方法が知りたい、相談したいという方は遠慮くなくご連絡いただけたらと思っております。


色んな在り方を~とはいいつつ、もちろん、私にも譲れない部分があり、超音波検査のことに関しては厳しめの意見も持っております。その検査の方法では患者のためにならない!と思うことは指摘します。しかし「それはだめだ!」だけでは何も変わりません。そもそもその方法が良くないことや学ぶ機会に恵まれない人が無理して頑張っていることもあります。であれば、少し先を歩むことができた私にできることは、オンラインセミナーなどを通して機会を提供すること、相談相手を作ることだと思っています。


〇人と関わる勇気を持とう!

実は私も基本的には引っ込み思案です。小学生~高校生の間はいつも独りで行動していて友達と一緒にいることは稀な人でした。社会人になってからたまたま同じ高校の同学年だったという人に会い、私はいつも独りで廊下を散歩している謎の人物として有名だったそうです。そのためこの間の思い出といえば勉強と部活くらいで、友達とどこか行ったとか青春とかそんなものは思いつきません。大学から徐々に人と関わることに興味がでてきて今に至りますが、実は今も本質的には独りでいることの方が得意なタイプだと思っています。

それでも大学~今に至るまで多くの出会いがあって、良いものも悪いものもありましたがそれらすべてが今の私を形作っているのだと気づきます。

しかしその関係性のどれも、勇気をだしてコミュニティに足を踏み入れたり、話しかけたり、連絡してみたり、そんなちょっとした一歩を私か相手が踏み出してくれたからこそはじまったのだと思います。

何かを変えたい、今の自分より成長したい、そんな想いをもったとき一人でできることには限界があります。

今はインターネットのおかげでとても連絡がとりやすくなりました。

昔の固定電話しか…手紙しか…の時代よりはるかに。

一歩踏み出してみると、より楽しい生き方がみつかるかもしれません。


〇過去の人間関係などの出来事で悩んでいるときは歴史の物語みたいに解釈

また大きく話が変わりますが、うつ病の話をしたので少しそえておきます。


まず歴史について、みなさんは歴史の物語、好きですか?

私はとても好きです。しかし、それは真実の物語が好きというより色んな解釈ができて、同じ人物でもいろんな側面があって、それがどう描かれるかが好きです。

一番好きな歴史人物は「明智光秀」です。

彼の立ち位置、彼の行動の解釈で本能寺の変は悲劇にも喜劇にも革命にもなります。

一番好きな解釈は「神に愛されなかった男」というドラマで唐沢寿明が演じた明智光秀です。へうげものという作品の明智光秀も素晴らしい。どちらも義に厚く高潔な人物として描かれていました。一方で他の解釈では、ただ謀反を起こした大罪人であったり、小心者であったりと大きく評価が異なります。

たくさんの書物や記録が残っている歴史上の人物ですらそうなのです。

私たち一般人の歴史だって色んな解釈があってもおかしくないなというのが私の考えです。

といってもどうしても当事者性があるので、信じるべきは「己の解釈」が良いかなと思いますが。


私がうつ病になったきっかけは人間関係によるものでした。

2時間廊下で立たされて説教されたり、検査上大事なことを進言したら烈火のごとく怒られたり、人前でずっと叱責されたり、朝早く(始業1時間前)に来ないからと怒られたり、他人がしたことで怒られたり、挨拶すれば無視され、挨拶がないと怒られ…ダブルバインドがひどく、どんどん疲弊していました。

そこでその相手に好かれるようにとにかく先回りで作戦をたて、考え方をトレースして何パターンも行動を想定して状況にあわせて変化させていく。そんな仮面をかぶって生きていました。

しばらくしてその人の矛先が他人にも及ぶようになったとき、自分だけなら守れても他人までは守れないと感じたときが私の精神の限界のときでした。


この出来事、私視点で語っています。私の中の私のうつの歴史物語はこれで良いのです。あくまで私は被害者、私は正しくて間違ったことをしていない、びくびく生きる必要はない。落ち度があったとしても仕方なかったんだ。あの時はそうするしかなかったんだ。そう思っていても良いと思います。

もし、誰か精神的に参っている場合も、その方の視点の歴史物語を聞いて、私は肯定したいと思います。そうでなければ立ち直ることがとても困難です。


私は変な人なのでこの歴史物語を他の視点でも読んでいます。

・相手視点

あんなに熱心に教育してやった。何時間もかけてダメなところを教えてやったし、早くきて準備する大事さも教えた!手塩にかけて自分の時間を割いて育ててやった。自分にもなついているようで信頼していたのにあいつは裏切った。服部は裏切り者で急にうつ病とかいって休職してやめていった検査室をめちゃくちゃにした大罪人だ!!

・第三者視点

なんか検査室でごちゃごちゃあったらしい。なんかエコーとか術中モニタリングできる人がうつ病でやめるんだって!検査室も大変ね。


もちろん私の味方をしてくれた方もいて、もっと親身な視点をもってくれている人もいます。同様に相手の味方もいて、サポートしている人の視点もあるでしょう。

同じ事件でも立ち位置によって全然ストーリーが違いますよね。

すべての時系列を把握し、そこでの感情も想起できるのは私と相手の二人のみです。相手からすると自身に寄り添って同じ志を持たないならば最初から演技などしてくれるな!という怒りがこみあげるのももっともでしょう。私はそれくらい自我を殺して働いていたのですから。

自我を殺すという判断と行動が私自身にとっては最善かつ生きる術だとしても、相手視点からだと愚弄されたと思われても仕方ないことです。


裁判となれば自己の正当性を主張し、勝利をもぎ取らなければなりませんが、裁判など法の場にたたず、自身の健康だけを想うなら自分の歴史物語を大事にしてほしいと思います。

そして誰に何を非難されても、それは自身の歴史物語の解釈を変えろと言っているのではなく、こんな解釈もあるんだな~と思うくらいに流せたら良いと思います。

上述したように私の物語でも立ち位置で色んな解釈があって、第三者なんで本当に他人事ですからね。

明智光秀はかっこいいと思う人がいてもいいし、裏切り者と思う人がいてもいいのです。

そうかぁ私はそう思わないけど、そういう考え方もあるのかぁ。

それもいいね!

となれたら、少し自分の歴史物語も楽しめるのではないかと思います。

と、やっとうつ病との闘いが安定しそうな私のだら~っとした文章でした。


まとめ

人と関わる以上、嬉しい思いだけというわけにもいきません。嫌な想いをすることもあるかもしれません。それでも人は人とのかかわりの中で夢やより良い未来を達成していく動物なのだと思います。

私みたいな体験はしないで欲しいですが、何かあってもちゃんとリカバリーできます。そしてそのリカバリーを助けてくれるのも人なのです。

人と関わるということを怖がらないで一歩踏み出して、一緒にこれからの検査を医療を、地域をより良くしていけると嬉しいと私は思います。


何かご意見や聞いてみたいことがありましたら是非コメントや連絡をお願いします!






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